となりの体温 3

 きつくなり始めた窓からの西日を背に、ハルヒは人知れず安堵のため息をもらした。目の前にはパソコンのモニター、その向こうには彼女が特に気にかけている男子生徒がいる。彼は薄っぺらい身体を猫背に曲げて、迷いなくチェスの駒を進めている。退屈そうに見えるその横顔が、本当に不機嫌になると全く印象が変わるということを、彼女は数日前に知った。
 でももう大丈夫だろう。不機嫌の原因だったらしい対戦相手の男子生徒と接しても、彼の表情はいつも通りだ。むしろ上機嫌にさえ見える。対戦中の会話も、いつもより多い。時々笑う。彼の機嫌がいいと、何となく自分も安心するような気がする。二人の仲直りに貢献したのはおそらく自分で、その想像も彼女を少し幸せな気分にさせた。

 古泉もまた、久しぶりに安らいだ気持ちを味わっていた。
 数日前にキョンが怒鳴ったことが、あの時はひどく苦しく逃げ出したいような状況であったにも関わらず、古泉には今は胸を包む暖かなことに思える。敬語と笑顔で他人とのコミュニケーションを避け続けてきた自分に対し、彼は正面から向かってきた。それは古泉にとって一つの事件であり、この上ない幸福だった。人から思いやられるということの幸せ、それがたとえ、彼の溢れる思いやりと心配りの一滴だったとしても、彼からのものであるということに無限の価値があった。
 彼は手を伸ばせばすぐ届くところで、何か思案している。瞼を伏せて、チェス盤を見つめ、うん、と小さく頷く。睫毛が意外に長い。細面に整った鼻梁が通り、薄い唇が何か呟く。首が細くて長い。少しだけ開いたシャツの襟元から、鎖骨の影が見える。身体も四肢も細く締まって、全体的にほっそりとした印象だ。女顔だとよく言われる自分より、一見彼の方がよほど女性的なタイプではないかと思うのだが、実際に接するといい意味でも悪い意味でも男くさい人だ、と古泉は考えている。
 突然、二人の目が合った。正しくは、キョンが顔を上げただけだが。
 穴が空くほどキョンを見つめていた古泉は、突如返ってきた視線に驚いて、肩を小さく引いた。それに気付いて、キョンが怪訝な表情を浮かべる。一旦重なった視線を逸らすこともできない間に、どういうわけか顔に血が上っていくのを古泉は自覚して、さらに体を固くした。そこで、キョンが口を開いた。
「おい、お前の番だぞ。考えすぎ」
「あ、はい」
慌てて古泉は、適当に目に付いたナイトをぽんと跳ばせた。それを見ていたキョンは呆気にとられて、ナイトと古泉を見比べてから、
「そんなに考えてそこなのか」
と呟くとクイーンを持ち上げてこつんと置き、チェックメイト、と言った。
「ああ、これはちょっと手詰まりですね」
古泉が息をついて笑うと、キョンはやれやれとため息をついた。

 キョンは感じ取っていた。
 それはふと視線をそらした時、ため息をついた時、何気なくふわあとあくびをした時、ひたりと追いかけるようについてきて、そのまま離れない。居心地が悪いような、腹の辺りがむずがゆいような、そういう気分に耐えかねて顔を上げると、そこには自分の視線に驚いているらしい古泉がいる。
 例えば何かの拍子にキョンの肘が放っていたペンに当たる。キョンは気付かないで、そのままゲームを続行したり、あるいは本を読んだりしている。あ、と小さな声が向かいからして、キョンが声の主の古泉を見上げると、彼は机の下に潜っている。
「何してるんだ」
キョンが声をかけると、古泉はいそいそと机の向かいにまた顔を出して、照れたように笑う。キョンは古泉の、そのベース笑顔と異なる笑顔を見て一瞬驚く。
「どうぞ、落とされましたよ」
そう言って向かいから白い手が伸びる。手の中に、さっき自分が机に置いたペンが握られている。
「あ、気付かなかった。ありがとう」
キョンが受け取ろうと掌を差し出すと、どうしてか古泉の手は僅かに引く。え、と思ってキョンが古泉の顔を見ると、彼は無表情に自分の掌を見ている。どこといって変哲のない男の手を。よく見るとその瞳が揺れている。何だこの目の表情は、とキョンは不思議に思う。そこで古泉がはっとして、またはにかんだような顔をしてペンを渡す。一瞬、指先が触れる。触れた一刹那に、相手の指が、手が凍ったように固くなるのを、キョンは感じる。その電流のような緊張に驚いて古泉を見ると、電流は彼の身体全体に走っているようである。その電流はどういうわけか自分にまで移ってきて、キョンはひどくいたたまれないような気分にさせられるのだ。
 あるいは、キョンが少し前にハルヒに何か言われてパソコンをいじって、そのまま長机に戻ってくる。しばらくして、携帯電話が手元に無いことに気が付く。机の上を少し見渡すと、その視線の移動に向かいの古泉が意識を向けていることに何となく気が付く。
「あの」
おそるおそる、といった感じで、古泉が声をかける。
「何だ?」
「携帯を、お探しですか」
少し驚きながらキョンが頷くと、古泉はほっとしたように肩から力を抜いて、
「あちらですよ」
と団長席に掌を向ける。団長席のハルヒがモニターの影になった携帯電話に気付いて、それを掴む。
「本当だ。キョン、投げるわよ」
「うわ、やめろよ」
慌てて腰を浮かせたキョンが携帯電話を受け取って、それから古泉の前に戻る。
「よくわかったな」
キョンの言葉に、古泉はただ微笑む。いつも過剰なほど饒舌な男が、何かいけないことをした少年のような表情で言葉なく微笑む。
 ああまただな、とキョンは思うのだ。

 古泉は自分に、何かを訴えかけている。古泉と不意に目が合った時に彼が見せる一瞬の表情が、もうどうしようもないほどに張りつめて溢れた水を、キョンに連想させる。
 しかしそれを追及するのは、いつかに彼を問い詰めた時と同じ展開になりそうで、キョンに二の足を踏ませた。それよりもキョンは、古泉が新しく見せる様々な表情が驚きと共に興味深く、またそうした変化が好ましく思えた。



となりの体温 2 4

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