となりの体温 2
鬱陶しいくらいにからりと晴れた翌朝、汗を拭って席に着いたキョンは、背後から女子に肩を叩かれた。 「古泉くんが呼んでるよ」 そんなことは滅多にないことなので、キョンは何事かと戸口に歩いていったが、サラウンド状態で聞こえる「古泉くんよー」「かっこいいー」のささやきに、本人の前に立ったときにはうんざりしていた。 「なんだよ」 「おはようございます」 古泉は青空のように晴れ晴れした笑顔を浮かべている。笑顔というよりはスマイル、という感じの爽やかさだ。白い歯と髪がきらきらしている。 「ああ、おはよう。なんだ」 「ちょっとお話ししたいことがあるので、放課後は部活がありますし、お昼休みにちょっと中庭までいらしていただけませんか?」 「部活でじゃ、だめなのか」 古泉は、にっこりと微笑んだ。一ミリもミスのない、完璧な微笑だ。 「だめなんです。お願いします」 そう言われたら、キョンはとりあえず頷くしかない。何しろ、背後からの女子の熱視線とプレッシャーがのしかかるようだ。 昼休み、中庭に歩いてきたキョンは、すぐベンチに座って待っている古泉に気が付いた。おう、と手を挙げる。にこにこしている古泉の隣に腰掛けたキョンは、古泉を見上げた。 「何だよ、用って」 「お呼びだてしてすみません、そう長くはかかりませんから」 「いや、時間とかはいいけど。何なんだ?みんなの前で話せないようなことなんだろ?」 「ええ」 古泉は、笑顔のまま視線を逸らす。 「いい天気ですね」 「おい、そんなこと言うために呼んだわけじゃないだろうな」 「ええ」 古泉の笑顔は変わらない。鮮やかな青のブレザーにぱりっとした白いシャツは、同じものを着ている人間に何となく劣等感を与える。 「何なんだよ」 キョンが言葉を重ねると、古泉は軽く頭を振ってまた微笑んだ。目が一瞬遠くなる。そしてまた、視線がぴったりと合う。唇が開く。 「キョンくん、僕はあなたの」 古泉は言葉を切った。信じがたいほど空気は張りつめている。キョンは一瞬言葉を失って、古泉の不動の笑顔から目を逸らしその拳を見つめた。彼のそれは固く握りしめすぎて、白く色を失っていた。 「あなたの、ことが」 キョンは黙っていた。ただ、古泉の言葉を邪魔しないように、珍しく必死に見える彼を見守っていた。 古泉はふと、力が抜けたように息を吐いた。自分の拳を見つめているキョンに改めて気付いて、ふっと微笑んだ。 「妬ましかったんですよね、ずっと」 「なに」 キョンは古泉の顔を見返して、はっとした。もうどこにも、先ほどのあの緊張感はなかった。気付かない間に、何かが身体の脇をすり抜けて消えていったのを感じた。 「何の努力もしないで神の寵愛を賜るあなたが、妬ましかった。この高校で、実際に皆さんと接するまでは」 キョンはぼんやりと、古泉の顔を眺めていた。 「なあ、古泉」 「はい」 「お前、そんなことが言いたくてここまで連れてきたのか」 中庭は心地いい風が吹いて、辺りに生徒の歓声が響いている。古泉は磨き上げられた美青年然とした様子で、脚を揃えて座っている。 「そうですね。どうでしょう」 「はっきりしないな、本当に」 「いえ、ただ僕は、あなたとお昼休みを一緒に過ごしたいだけだったのかもしれません」 「気持ち悪い」 キョンは、目の前の人間の真意をはかりかねることが、こんなにも気分の悪いことだと初めて知った。それが古泉だったからかもしれない。 古泉は、眉を下げて笑う。キョンが期待したような弁解もなく、風に揺れる柳のようにただ笑う。キョンはいらいらとして、ベンチから立ち上がった。 「笑えない冗談は嫌いだ」 古泉は何も言わずに、微笑んでいた。去り際に、キョンは古泉の拳がまだ固く握りしめられているのを認めた。どうしようもなくいらいらして、キョンはぎりっと歯を噛みしめた。 「キョン、古泉くんとケンカでもしてるわけ?」 放課後、ハルヒにそう言って顔を覗き込まれたキョンは、なんとなくぎこちない雰囲気だった古泉と、思わず顔を見合わせた。 「古泉くん、なんかあったの?」 「いえ、特に何もありませんよ。でも、涼宮さんがそうお思いになるなら、あるいはそうかもしれませんね。何もなくても、人間、機嫌とか調子とかいう曖昧なものがありますから」 キョンは、すらすらと何事もなかったように話す古泉を睨むように見上げていた。 「要するに、キョンが不機嫌なのね。そういえばあんた、午後からぼんやりしてたけど、なんか調子悪いの?」 ハルヒなりの心配の仕方に、少しキョンは気持ちが和んで、首を振った。 「大丈夫だよ。古泉も適当なこと言うな。…でもちょっと、確かに風邪気味だから、今日はこれで帰ろうかな」 何を考えているのか分からない古泉の前にいることに、その日は殊更に気分を逆撫でされるようで、キョンは立ち上がった。 「何よ、そうなの?じゃあさっさと帰りなさいよ。みくるちゃんに移したりしたらただじゃおかないからね!ちゃんと直しなさいよ!」 「はいはい」 「古泉くん、ついでなんだし送ってあげてよ。キョン何か危なっかしいわ。もう、今日は特にすることもないし」 扉に向かいかけたキョンは思わず振り返る。暗に明日までに仲直りしろ、という親切なのだろうが、こればかりはキョンは迷惑だった。 「おい、ハルヒ。大丈夫だよ」 「いいじゃないの。古泉くん、いいでしょ?」 古泉は二人の間で、困ったように微笑んでいたが、やがてハルヒに向かって頷いた。 「もちろんですよ。断る理由がありません」 無言で坂を下っていたキョンに、しばらくして古泉が後ろから声をかけた。 「…今日は、すみませんでした」 「なにが」 「…お昼に、変なことを言って」 「変なこと言ったと思ってるのか」 「いえ、…」 「あのな!」 キョンはやにわに古泉の方に振り向いた。古泉は驚いて、目を見開く。 「言いたいことがあるなら、はっきり言えよ!」 少しだけ、間が空く。古泉はキョンを見下ろして、唇をうっすらと開いたまま口ごもっていた。 「古泉」 キョンの視線はぶれない。ただ真っ直ぐに、射るように古泉の瞳を刺して留め置く。夕焼けを映してか、じわじわと古泉の頬は紅潮した。 「…すみません」 「だから」 「待って下さい。やっぱり今は、ちょっと時期が違うんじゃないかと思いまして、だから、いつか申し上げますから、待って頂けませんか」 古泉が珍しく余裕もなしに慌ててそう言うので、キョンも責める気が失せた。 「『機関』絡みのことか」 「…ええ。そうともいうかもしれません。いえ、明らかに大きな一要素です」 「そうか」 キョンは、彼が謎の団体に振り回されているらしいことを思うと、古泉に強いことが言えなくなる。無責任なことを言わないことが、せめてもの古泉への協力になると思うからだ。 「じゃあ、仕方ないが。…言いたいことがあったら、ちゃんと言えよ。遠慮とかするなよ。男同士なんだからな」 キョンがそう言うと、古泉は本当にほっとしたようで、にっこりと全身の気の抜けた笑みを浮かべた。 「はい。ありがとうございます」 「…ごめんな。お前の立場のこと考えないで」 キョンが前を向いてぼそっと呟くと、古泉が飛びつくように後ろから追いかけた。 「とんでもないことです!そんな!」 「うざい!近寄るな!」 二つの影が長く坂道に伸びて、消えていった。 |