となりの体温 4
その流れが堰を切って溢れ出したのは、何気ないほんの一瞬のことだった。 物言わず座っている長門に続いて古泉が文芸部室に入り、次いでキョンがやって来る。嬉しそうに古泉がオセロを取り出してきて、キョンとぱちぱちやり出す。そこに今度はみくるが登場して、鞄を置いたところでハルヒが扉を蹴破る調子で入ってきた。 「みくるちゃん、今日はメイドじゃなくていいのよ!」 「え…?」 「今日はこっち!日が暮れる前に外で撮影するから、ちゃっちゃと着替えるわよ!ほら、キョンと古泉くんは早く出て!」 ふぇえぇ〜、と気の抜けたみくるの悲鳴を背に、キョンと古泉は廊下に出た。 「これは、今日は解散になるな」 「そうですね」 「あいつ、朝比奈さんに何着せる気なんだろうな。確認すればよかった」 キョンは心配そうに扉を見ている。中から、「ひゃあ、じ、自分でできます!」とか「や、やぁ、大丈夫ですぅ…」などという消極的なみくるの拒絶が聞こえてくる。もっともそれは、あまり意味がないようだ。 「入っていいわよ!」 ハルヒの弾んだ声が聞こえて二人が部室に入ると、そこには非現実的な装いをしたみくると得意げなハルヒがいた。 「見て!この愛らしさ!お人形みたいじゃなくてお人形よ!」 みくるはフランス人形を彷彿とさせる複雑なドレスを着せられて、しょんぼりうなだれていた。彼女の心情はともかくとして、それはよく似合っていたし、キョンが制止する必要を感じるほど露出度が高いわけでもなかった。 「これなら外に出られるでしょ。さ、公園で撮影するわよ!荷物!有希も手伝って!今日はこれで解散!」 ハルヒはみくるを引きずって廊下に飛び出し、長門もひっそりと後に続いた。ろくに口を挟む間もなく二人きりになった男性陣は、顔を見合わせて苦笑した。 「どうします?帰りましょうか?」 「そうだな。いや、さっきの続きだけ終わらせて帰ろう。途中で気持ち悪いし」 「はい」 キョンの返事に、古泉はぱっと表情を明るくした。 「お前、本当にボードゲーム好きだな」 キョンが苦笑して踵を返すと、その瞬間、がくんと足元が狂った。足が回り切らなかったらしい。あっ、と小さな叫びで体勢が崩れたところを、慌てて背後の古泉が抱き止めた。 「だ、大丈夫ですか」 「ああ。ごめん、足腰弱ってんのかな、俺」 キョンが苦笑いを浮かべて、古泉にもたれた状態から体を起こした。しかし、古泉はキョンの腕の下から差し入れた両腕を離そうとしない。 「古泉、ありがとう。もう大丈夫だぞ」 キョンがそう言っても、背後の古泉はなぜか黙り込んだままだ。背中は、古泉の胸板に沿っている。早鐘のような鼓動が、直にキョンの背中に触れる。 「おい」 そう言ってキョンが、振り返ろうとした。 そして、それはきつく締め直された古泉の腕によって、制された。 古泉は、自分でも何でそんなことをしたのかわからなかった。ただ目の前に、キョンの小さな頭と細い背中があった。ブレザーが少し身体に余って、しわが寄っている。その青色が揺れて、反射的に手が伸びた。思いもよらずキョンの背中を抱き止めて、大丈夫ですかと問いながら、古泉はその余りの近さに目眩がした。自分の鼻先に、キョンの短い黒髪が触れる。回した腕の中に、その身体は驚くほどすっぽりと入り込んでしまう。こんなに細い人だったのか、と古泉が思うのと同時に、キョンの背中から体温が伝わってきた。頭が真っ白になった。心臓が壊れそうだ。何でこんな状態になったのか、もはやよく思い出せないまま、古泉はほとんど本能的に両腕をぎゅっと寄せた。キョンが何か言っているようだが、音が耳から滑り落ちて、意味がよくわからない。自分の鼻をキョンの頭に寄せる。髪が、若草のようにほのかに香った。胸が苦しい。呼吸困難で頭が痛い。身体がキョンの背中にぴたりと密着して、腕が胴に絡みついて、自分の太股が彼のそれに触れているのがわかる。古泉は、僕はおかしい、と思う。僕は異常だ。キョンが腕の中で暴れているのに、身体が動かない。動かせない。自分の中に押し込めるように、なおさら強く腕を締めてしまう。何か熱いものが腹からせり上がってきて、止めようもなく、古泉は呟いた。 「好きです」 「あなたが、好きです」 そう言った途端に、古泉は、何だやはりそうだったのか、と安堵した。それはパズルの最後のピースをはめたようにぴったりと心にはまりこんだ。同時に古泉は、それを口に出した瞬間から激流のように感情が溢れ出して、溺れてしまうような錯覚に陥った。その言葉を聞いたキョンは、体の動きをぴたりと止めて押し黙っていた。硬直しているといった方がよかった。古泉は無抵抗のキョンを抱きしめたまま、ほとんど上の空で、好きです、ずっと好きでした、と繰り返していた。 キョンは愕然としていた。後ろの古泉の顔を見てやろうとも思わない。散々抵抗した自分を無視したあげくにやっと出した答えがこれか。その囁きを聞き間違いにしたくてもできないほどに、古泉は何度も何度も繰り返す。まるで呪文のように、ベルベットのような滑らかな声色で。 キョンが感じていたのは、表面的には怒りだった。ふざけるな、馬鹿にするのも大概にしろ、という憤慨がこみ上げてきて、ではさて、古泉がどうしてそんな手段でキョンを馬鹿にするのかという理由がわからなかった。古泉の台詞は、今までのその態度からの違和感を全て説明しうるものだったが、そういう文脈を全て繋げるという行為自体にキョンは耐えかねた。つまりキョンは、理解できないししたくない、とわめきたかったわけである。 しかしそうするには、余りにも背後の男の囁きはリアルで真摯だった。血が滲むほど切実で、キョンはそれまでの人生でそんなに必死な人間の声音を聞いたことがなかった。ただ凍りついて、じっとその言葉に耳を傾けていた。好きです好きです好きです、という声の渦巻きに飲み込まれてしまったようだった。いつも涼しげな顔をしたあの男が、自分相手にどんな顔をしてそんなことを言っているのか、キョンには想像もつかなかった。黙って考える。目が合った時、手が触れた時、古泉はどんな顔をしていただろうか。 それを思い出した途端に、キョンにあのむずがゆさが蘇った。説明のつかない、あの気持ちがあちこちに引っ張られて痛むような、あのやり場のない居心地の悪さ。ぞっと総毛立った。恐怖なのか不安なのか不快なのか、それが何か自分でも把握できないまま、唐突にキョンは渾身の力を振り絞って、古泉の腕を払い突き飛ばした。 「何だよそれ」 古泉はまるで子供のような表情で、目を見開いてそこにいた。何が起こっているのか、一欠片も理解できない、とでも言うように。キョンは混乱した。彼をひどく傷つけたのか、あるいは自分がひどく傷つけられたような気がした。 「何なんだよ、一体」 キョンは目を逸らして後ずさった。手に触れた鞄をとっさに掴むと、そのまま戸口に向けて走り出した。古泉の脇をすり抜ける。扉が激しい音を立てて開閉した。 その間古泉は、身動きひとつしなかった。お決まりの微笑すら浮かべられず、驚いた顔をして、ただそこに立っていた。 |