となりの体温 1
身体を引きちぎられるような痛みを感じて、古泉ははっと瞼を開いた。 広がるしんとした闇。小さなエアコンの音と、夜明けにはほど遠い時刻を指した時計の針の蛍光色。古泉は無意識に身体を探って、どこにも傷がないことを確認した。無意識に止めていた息を、ゆっくりと吐く。そのまま、両腕で自分をかき抱いた。 震えが、止まらなかった。 「古泉、お前の番」 古泉が顔を上げると、机を挟んで向かいに座ったキョンが首を傾げていた。 「すみません」 古泉は慌てて机上のオセロを覗き込む。 「眠いのか?」 ひょっとして、と今にも続けそうに物珍しげな様子で訊ねるキョンに、古泉はにっこりと微笑んだ。 「いいえ、そんなことはありませんよ」 その笑顔は、他人に有無を言わせない力がある。何か言おうと唇を動かしかけたキョンは、けれどもそのまま声にならず、「そうか」とため息まじりに呟いた。視線がオセロ盤に落ちて、右手が斜めに横切る。黒をひっくり返す。白。ぱち、 「手首、細いですね」 ぱちぱち、 「やめろ、ゲーム中に触るな」 ぱちん。 「ああ、また角を取られてしまいました」 手首の細さを測るように回った古泉の手をうるさそうに払って、キョンは古泉の顔を見上げる。微妙なズレひとつない完璧な笑顔だ。三つ目の角を取られて、彼のゲームは猛烈に敗退への道を辿っているのだが。 「真剣にやってんのか?また勝つぞ」 いつも通りの笑顔のまま、いつも通り負ける古泉に、キョンは軽い苛立ちを覚えた。 「真剣ですよ」 古泉はまた笑った。キョンは目を逸らした。 グラウンドから、サッカー部の掛け声が遠く響いている。時折、長門が本のページをめくる微かな音が聞こえる。 「ハルヒはどこ行ったんだ?」 「扇風機が欲しいとおっしゃって、あなたがいらっしゃる前に朝比奈さんを連れてどこかに行かれましたよ」 「またあいつ、朝比奈さんを利用して…」 て、と語尾がぼんやり反響して沈んだ。二人のいない部室は、つくづく静かだ。 「なあ、古泉」 キョンは四つ目の角へと白を広げながら、のんびり訊ねる。 「お前、一人暮らしなんだろ?家帰って飯とかどうしてるんだ」 「そうですね、大体は自炊ですよ」 「古泉!料理できるのか」 思わず手を止めて、古泉の顔をまじまじと見つめる。 「飢え死にしない程度には」 キョンはその微笑を眺める。優男、という言葉が実にぴったりする顔立ちだ。 磁器のように白い肌に色素の薄い長めの髪がふわりとかかり、切れ長の目に高い鼻と薄い唇が、絶妙な位置に配されている。出来すぎた、人形じみた美貌だとキョンは思う。彼が微笑むと余計に。無機的な、無味無臭の美しさだ。それゆえに、腹の内がわからない。 「どうしましたか?」 そう何気なく訊ねる言葉のひとつひとつも、柔らかではね返るところがない。 「別に」 そうですか、とにっこりする古泉の表情に、キョンは訝しく思う。 ―――こいつ、何考えてるんだ? ―――いつも。 小さなバイブ音に鞄を探って俯いた古泉は、小さく頭を下げて立ち上がった。 「すみません。バイトに行かなければならないようです」 「バイトって…あの?」 「ええ、バイトです」 キョンは何かを言おうとして、しかしやはり形にならなかった。無言のキョンに微笑んで、部屋を出ていこうとする古泉の背中に、慌てて声をかける。 「ゲーム、途中だ」 「すみません。また明日、続きしましょう」 「気を」 振り返らない古泉に、キョンは思わずそのまま言葉を重ねる。 「気を、つけて」 一瞬、古泉のドアノブを握る手が止まった。ありがとうございます、と答える、彼の小さな声が聞こえた。 それが、キョンが古泉はある機関から派遣されてきた超能力者であるということを聞いた一月後のことだ。バイトという言葉で片付けるには余りにも荷の重い古泉の仕事は、キョンにとって理解の範疇を越えていた。大丈夫なのかと訊くのは間が抜けているし、そんな危ないこともうやめろなんて言うほど親しくもないし、第一やめられたら困るみたいだし、そうかといって口を開けて傍観しているのはいかにも気が利かない感じがする。キョンにとって、古泉は宇宙人の長門有希や未来人の朝比奈みくるよりどこか距離が近かった。同じ男子高校生で、ちょっと変な能力があるだけなのだ。本人がやたらと自信満々な雰囲気を醸し出しているので認識が難しいが、キョンは古泉に他人事なりの心配と同情を感じていた。 次の日キョンが部室に行くと、本人にはそんな気もないのに一番乗りだった。これじゃ俺はこの部活大好きって感じだな、とため息をついて定位置のパイプ椅子に腰掛けると、すぐにまた入口の扉が開いた。振り返ったキョンの目に映ったのは、少し驚いた顔をした古泉だった。 「何だ、古泉か」 キョンが声をかけると、思い出したようにふにゃりと表情がはりついた笑顔に変わる。 「ええ、僕です。残念ながら、もう行かなければならないのですが」 「またバイトか」 「ええ。このところ、退屈でイライラされてるみたいですね、彼女」 「そうか」 「もう、行きますので、皆さんにそうお伝え下さい」 「ああ、わかった」 微妙に間が空く。キョンは出ていこうとしない古泉を不思議に思って、いったんは逸らした視線を古泉に向ける。意外にも、古泉は定番の笑顔をキープしそこねた感じの微妙な表情で立ちつくしていた。視線が合うと、慌てたように古泉は口を開いた。 「あの」 「ん」 「お願いがあるのですが」 いよいよ笑顔どころか真顔になってきた古泉に、キョンは身構える。こんなことは滅多にない。 「何だ」 「も、…もう一度、あれ、お願いします」 どうも緊張しているらしい古泉は、明瞭な発音でそう言いきったものの、肝心の内容は曖昧を極めていた。 「あれって、何だ」 「あの、昨日、おっしゃって下さったじゃないですか、昨日、僕が出るとき」 真剣すぎて無駄に凛々しい雰囲気になっている古泉を前にして、キョンは数秒考え込んだ。高速で再生される昨日の部室と、古泉の背中、自分は確かに、何か言葉に迷って必死に投げかけた――― 「…気を、…つけて」 これだったかと思い出しながら古泉を見上げたキョンの目に、その時信じがたい光景が飛び込んできた。 古泉の頬が、見る見る内にかあっと赤く染まっていく。頬どころか、耳まできれいな赤に染まって、どう見てもほかほかにゆであがっている。いつも冷静で落ち着き払った古泉が、赤面して硬直している様は、キョンを驚かせた。 ―――な、何だ?熱か?いきなりどうした、古泉。 「大丈夫か?」 キョンが古泉の顔を覗き込むと、古泉は跳ぶような速さで扉へ後ずさった。 「は…、…あ、いえ、大丈夫…ですよ」 明らかに大丈夫ではない様子で視線をふらふらとさせると、小声で「ありがとうございます」と呟いて、古泉は扉にぶつかるようになりながら部室を出ていった。 「…何なんだよ…」 そう呟いたキョンだが、その後やってきた退屈しきったハルヒの相手をしている間に、そんな出来事もすっかり忘れてしまっていた。何故平々凡々たる自分がこんな異常な状態で平然と学生生活を送れているのか不思議なくらいだ、と彼は思っている。 |