若緑のねむるころ 2

 キョンはゆっくりと長い廊下を歩き出す。顔が映るほど磨き込まれた板は、踏むときしりと鳴った。
「今夜は本家でもてなそうと思ってここへ呼んだが、いつもは学校近くの街の家を借りてるんだ。明日は向こうの家に移る」
「そうなんですか。通りで、少し学校からは遠いと思いました」
「荷物は向こうの家に送らせたんじゃないか?あちらはずっと小さな家で、手伝いも女中と下男が一人ずつだ。田舎のこの屋敷より、暮らしやすいと思うぞ」
キョンは少し一樹に振り返って微笑んだ。
「田舎はうるさくてかなわん」
それを聞いて、一樹は無意識に息を止めていた。
 兄弟と思え、と言ったか。どういう意味で。どういう紹介で今自分はここに立っているのか。一樹は探る気持ちが止められず、キョンのもの言わぬ背中を眺める。
「ここだ。一応今夜ばかりの仮の宿だが、これからも本家に戻る時はこちらを使えばいいだろう」
キョンは黒檀の文机やガラスのはめこまれた本棚が置いてある、がらんとした一間の襖を開けてみせた。
「続き間が寝所だ。急ごしらえで素っ気ない作りで申し訳ないな。俺の部屋はその向こうの物置の続きだ。何かあったらでかい声出せば聞こえるし、そこらへん適当に開けたら分かると思うぞ」
ひどく大雑把だ。キョンはこれで一仕事終わったという風に背伸びして、廊下から庭を眺めた。伸ばした腕からたもとが落ちて、白いひじがばさりと露になった。
「そこで適当に休んでもらってもいいし、何ならこの辺りを軽く散歩するか、…」
そう言いながら一樹を振り返ったキョンは、言葉を止めた。一樹はひどく真剣な顔をしていた。
「ひとつ、聞かせて下さい」
「…なんだ」
「僕のこと、何とお聞きになりましたか」
しんと沈黙が流れた。
「お前のことか」
キョンは目を伏せた。
「取りあえず義兄弟あたりで手を打たないか。学校では、父親の親友の息子ということになってもらうつもりなんだが。親戚はごろごろいるしな」
「いえ、あなたがどう思っているかです」
「俺が?」
ちらっと、キョンは一樹を見上げた。そうしてにやっと笑うと、どこか人の悪そうな顔になる。
「俺は、すごい美女の息子だって聞いてる。親父の初恋の女の子供だって」

「俺はどっちかっていうと、お前のご母堂様の方の話をよく聞いてるんだよ。綺麗で情の深い女だったってね…古泉、お前こんな話聞いて怒らないか」
ふと素直な目をされて、一樹は口ごもる。育ちのよさを見せつけられたようで、不愉快に思えず、そうかといって歓迎したい話でもない。
「いえ、…複雑ですが」
「いや、親父の話も曖昧なんだ。昔好きだった女の空想めいた思い出話を酔っぱらってたまにするくらいでな、青臭い話だし、実際親父の片思いだったんじゃないかって俺は思ってる。正直、こういう形でお前と関わっていいのか俺は疑問だし」
「…そうですか」
一樹は息を吐いた。胸の辺りのもやもやするものをどうしたらいいのかわからない。男親と女親とでは、受け取り方の違う話だ。
「あー。もうやめやめ。いいじゃないか、とりあえず俺たちは初対面で同い年だ。これからは同級生で同居人だろ。うちの父が後見人になると言ってるんだ。兄弟くらいに思わないとやってられんぞ、お互いな」
キョンは首を振って、ポンと一樹の肩を叩いた。
 その仕草には、遠慮も図々しさもなく、ただ非常に適当な距離が二人の間に置かれた。
「今夜は、俺と食事を取ろう。古泉がいいなら、父と同席するのもいいだろうが」
「…いえ」
一樹には、まだそこまでの心の準備ができていなかった。
「お帰りの際に、お礼だけ述べさせて頂きます。これまでと今後について、お世話になりますから…きっと、奥様は僕の顔を見たくないでしょうし」
「ああ、うん…どうだろうな。まあそれがいいんじゃないか」
図星、といった表情でキョンは苦笑いした。
「お互いおかしな状況だな。まあとにかく、俺はお前に含むところはないよ。気楽にしてくれ。そんな直立不動じゃなくていいぞ」
キョンはそれだけ言ってひらひら手を振り、廊下を歩いていく。キョンの言葉は裏もなさそうだったが、だからといってくつろげるほど一樹は図太くもなかった。ただ軽く会釈して、用意された部屋に入って座り込んだ。ひどく疲れていた。
 一樹は母親に、かつてとても世話になった人が今回の不幸を聞いて、再び世話を申し出てくれている旨を伝えられた。母は、自分は蓄えがあるからもういいのだ、と言った。それにどの顔をしてあの人と奥様に会えばいいのかわからない、と。
『でも、あなたは違うでしょう。これからどんな勉強がしたくなるかわからない。事業するにも資本と地盤が必要だわ。一樹、あなたはあの方のご厚意に甘えなさい。必ず倍にしてお返しするつもりで』
 別に世話になりたくはないと拒む一樹に、母は有無を言わせなかった。すぐに連絡を取られて、外堀を埋められた。私はあなたを引き取るつもりはない、今からあなたが働けるの、とそこまで言われた。そんなことは不可能だった。
 一樹は感謝の念と反発心とがないまぜになった何とも言いようのない思いを抱えて、その男を待った。他の男の妻になった女を、その息子までも世話をしようという男と、これから会うのだった。

 次の日、慌ただしく二人は広い屋敷を後にして駅に向かった。一樹は言葉少なで、白い顔をやや青ざめさせて列車に揺られていた。キョンは何か言いたく思ったが、一樹の心境を思うと下手なことも言えずに、それとなく世話を焼きながら道中を過ごした。いつもは鷹揚な母親の、今日は神経質にひそめられた眉も気にかかったままだった。今回の帰省は学期内のものでゆっくりできず、妹も満足に構ってやれなかった。
 向かいの一樹を見ると、ぼんやりした顔の唇が乾いて生気がない。キョンは再び小さくため息をつくと、水筒で茶を汲むと差し出した。
「え」
気づいた一樹は目を丸くしたが、キョンが気遣っているとわかると微かに微笑んだ。
「ありがとうございます」
「俺にこんなことさせるのは妹くらいだと思っていた」
「それはそれは、申し訳ありません」
そうして口を湿すと、途端に喉の乾きに気がついたのか、一樹はおいしそうに杯を開けた。返されるそれに、キョンはもう一杯注いでやる。
「え、あ、すみません」
一樹は慌てたように会釈したが、素直にそれも飲み干した。
「飴もいるか」
キョンがにやにやしながらポケットを探る。
「妹が遠出するといつもねだるんだよ」
「何ですか、それ。いいですよ」
少女と同じ扱いをされて、一樹は顔を赤らめて断ったが、キョンは首を振って笑った。武骨な手を開くと、小さな箱が手にあった。
「朝、ろくに飯食わなかったんだろ」
一樹は膝に置いた手を取られて、こんこんとその掌の上に箱を傾けられた。赤や黄の飴玉が転がり出す。
「取りあえずそれ食っとけ。着いたら、うまい洋食食いに行こう」
そう言って一樹を見上げるキョンは、今日は一樹と同じ詰襟姿だ。見上げた目が、やはり人をからかうように見える。一樹は手の丸い飴を持て余して、結局口に運んだ。驚くほど甘く感じた。
 向いを見ると、キョンは微かに笑って一樹を見ていた。一樹が飴を食べたのを見て、いたずらが成功した子供のように笑った。混じりけなく、嬉しそうな笑顔だった。







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