若緑のねむるころ 1
オルガンの古びた鈍い音が、広いしんとした土間に微かに響いていた。 「ごめんください」 一樹は静かに声をかけたが、依然として土間には誰も現れない。おそらく自分のために門は開け放されていたが、迷いそうに広大な敷地の屋敷の案内の者はなく、彼は一人で玄関までたどり着いた。扉を引く音にも反応はなく、ただ静かにぼんやりとしたオルガンの音がたゆたっている。一樹は唇を噛んだ。俯くと詰襟が窮屈に首につかえる。一樹ははじかれたように顔を上げて呼びかけた。 「ごめんください!」 オルガンの遠い音が止んで、代わりに鳥が笑うように背後で鳴いた。思わず振り返った一樹は、丹精された玄関脇の小さな植え込みを眺めた。鳥の影がすうっと差して消えた。 「何の鳥でしょうね」 突然声がかけられて、一樹は慌てて正面に向き直った。玄関の広間に出てきた人影に気が付かなかったらしい。 そこには、しなやかでこしのある紺の着物に身を包んだ青年が、正座をして庭を見遣っていた。さっぱりと刈った黒髪が、細面に細い骨格を青年らしく際立たせていた。 「高い所から申し訳ありません。ようこそおいで下さいました」 きれいな仕草で礼され、一樹も深く頭を垂れる。 「こちらこそ、わざわざのお迎えありがとうございます。古泉一樹と申します」 お互い頭を上げると、広間に座った同年代らしい男はにこやかに微笑んだ。 「私のことは兄弟とお思い下さい、そのように扱われるでしょう。お待ちしておりました、古泉君。どうぞお上がり下さい」 その台詞に会釈を返して、ようやく一樹は確信した。 目の前の男こそ、母の想い人の息子、かの人の生き写し、生まれ落ちたその時から由緒ある資産家の嫡男として慈しまれ何不自由なく過ごしてきた男、姿かたちも知らぬまま幼い頃から比較され競わされてきた、その相手だった。 古泉一樹は中程度の木綿問屋の息子として生を享けた。美しい母親が元は芸者で、かつてある資産家に囲われるところであったのを青年実業家だった父が奪ったらしいというのは、口さがない父親の親戚から幼い頃漏れ聞いた話だ。父親は恐ろしい手腕と野心で見る間に事業を拡大し、大正と元号を改めた新時代の成功者としてその名を上げていた。 一樹は一代で成功した父親に、上を向くことを厳しく仕込まれた。夢見がちな母親に同調する気持ちを多く持つ穏やかな気質は、父親の批判の対象になった。受け継いだだけの資産や血筋に胡座をかく者に決して負けるな。自分で力を獲得しろ。そう言われて与えられた身を潰すほどの教育をこなすだけの力が、幸か不幸か一樹にはあった。父親の期待を一身に背負いながら中学校に進学した次の春、生き急いだか、思いがけず父親は桜の下で急逝した。それが一樹の不幸の始まりだったといえる。 誰もが一樹が継ぐと信じて疑わなかった会社のほとんどが、父親の愛人の子に譲られていた。父親自身がどこまで関知していたのかは分からない。乗っ取られた、と唇を震わせた父親の腹心の部下は、それでも母が十分に余生を送れるだけの資産は守ってくれたが、間もなく自分自身のために奔走せざるを得なくなった。 母親は眉根を寄せて言葉少なだったが、ある日呟いた言葉は一樹には印象的だった。 「罪は回り回るものね」 そしてある日届いた手紙を手に物思いに耽っていたが、やがて一樹に驚くべき提案をしたのだった。 広間のすぐ脇に、畳敷ながら洋風の応接間が設えてあって、一樹はそこに通された。 「どうぞお掛け下さい」 白いレースのカバーに包まれたソファに深く腰かけると、いきなり背後の襖ががらっと開いた。 「ねえキョンくん!」 そこで来客に気付いたのか、甲高い声が止まる。一樹が振り返ると、幼い少女が目を転げ落としそうに大きく見開いていた。 「こんにちは」 一樹がそう言うと、少女も慌ててこんにちは、とお辞儀する。 「こらお前、何度言ったらいきなり襖を開ける癖を直すんだ」 うんざりしたと言わんばかりの声に驚いて一樹が青年を見直すと、彼は先程までの坊っちゃん然とした態度はどこへやら、顔をしかめてため息をついていた。 「ごめんなさーい」 ぺろっと舌を出した彼女を一樹に、妹です、こちらは古泉一樹君だ、と手短に紹介すると、下がろうとした少女を呼び止めた。 「あっちゃんとみいちゃんはどこに行ったんだ?」 「知らなーい」 彼はまた深々と息をついて、わかったもう行け、と手を振った。 「躾のなっていない妹でお恥ずかしい限りです」 「元気そうで可愛らしいじゃないですか。キョンくん…と、呼ばれているのですか?」 「ああ、もう、それは!」 顔を赤くした彼に一樹は何か心のこわばりが少し解けた。からかうつもりで、口の端を少し上げる。 「僕もそうお呼びしましょう。弟のようなものですから、妹さんに倣うべきですね」 キョンは心底嫌そうな顔になって、伸ばしていた背筋をソファに落とした。 「好きにしてくれ。だが俺も弟と思って、金輪際お前には敬語を使わんぞ」 一樹は拗ねたようなその口調に思わず微笑んで、そんな自分にぎょっとした。目の前にいるキョンが、長年恨みにも仇のようにも思っていた男とは到底思えなかった。 「なに妙な顔してるんだ」 何の衒いもないような顔をして小首を傾げてみせたキョンを見て、一樹は無意識に目を逸らした。 窓からうららかな春の日差しが差し込んでいる。キョンは何気なく外へ視線を向けて、小さくあくびをした。手を上げてまなじりをこすり、ぼんやりと庭の新緑を見るともなしにしている。まるで緊張感がない。一樹はぴんと伸ばした背筋を緩める気持ちの余裕もなく、さりとて一人しゃちほこばっているのはばかばかしいような気もしたが、なぜか腹は立たなかった。初対面の自分をほったらかして庭を見ている青年はひどく自然な佇まいで、別に一樹を無視しているわけでもないらしかった。 似ているのだろうか?と一樹は考える。この男とその父親は似ているのだろうか。母親がかつて焦がれた男と、キョンは。頭は小さくて形がいい。襟から伸びた首がすっとして、それが何の変哲もなさそうな男の姿をこざっぱりと見せている。 一樹がその静かな表情を黙って見ていると、突然キョンが視線を一樹にやった。 「古泉、明日から一緒に中学校に行くんだろう?」 「ええ、あなたの中学校に編入させていただく予定です」 「ひと騒ぎあるだろうな」 え、と古泉が聞き返すと、キョンは首を振って立ち上がった。 「ついて来い。お前の寝室を案内するから」 のんびりと広間を横切って廊下に出たキョンを追いかけて、一樹は慌てて立ち上がった。 |