影踏みアリア 7
駅から十分ほど歩いたところで、三橋は立ち止まると阿部を振り返った。 「ここだよ」 ようやく腕が解放される。阿部は三橋が泣き止んでいるのを見てほっとしてから、三橋が入ろうとしているマンションを見てぎょっとした。 「ここかよ!」 「?うん」 三橋は不思議そうな顔をしながら、エントランスのロックを開ける。曇りガラスの自動扉が開いて三橋がエレベーターのボタンを押すと、阿部は盛大に溜め息をついた。 「相変わらずおまえは…」 どう見ても学生の住むマンションではなかった。部屋に通されると、そこは間取りとしては一人暮らし向けの1LDKだったが、それにしても広くてきれいだ。家具も統一感があり、決して安物には見えない。 「親、とかも、仕事で使ったり、するし」 三橋はそう言っていたが、余り自分の住居の価値を分かっていないようだった。 部屋の中は大して物が無かったが、週一で母親が片付けに来るだけあって阿部が想像していたより整頓されていた。お茶を入れようとしてまごまごしている三橋に、いいから座れと阿部は声をかけた。リビングのテレビの前のラグに、二人で座り込む。 「お前さ、何か言いたいことあるんだろ。お互い忙しいんだし、我慢してないでさっさと言えよ」 阿部がラグに置かれたローテーブルの上を見てそう促したが、三橋は、う、と声をもらしたきり何も言わなかった。何も言えないというよりは、ありすぎて何から言えばいいのやらといった風に見えた。 「じゃオレから質問」 阿部がそう再び切り出すと、びくっとして三橋は阿部の顔を見上げた。 「あのペン、何なんだ。何のこだわりがあるのかわからなくて気味悪ぃんだけど」 「…あ、あれは」 三橋は、おそらく何か口実を探そうとしてうろうろと視線をさまよわせたが、結局長い逡巡の末答えた。 「あれは、阿部くんのなんだ」 「…は?オレ、あんなん知らねぇぞ」 「え…と、オレ、高三の、時、誕生日に…阿部くんに…プ、プレゼ…」 「なに?くれようとしたの?」 「…う」 「え、マジ?」 「うん…」 穴があったら入りたいという雰囲気で赤面している三橋を前にして、何でオレに文房具とか微妙なチョイスなんだとか、部活仲間でおごりあいするかしないかくらいの誕生日に何をマジになってんだとか、それにしてもやけに高そうなペンだな、これ多分万年筆レベルだろ他に金の遣い方ないのかとか、それはそれは阿部には突っ込みたいところが沢山あったのだが、ひとまず一番訊ねたいことを聞くことにした。 「…なんで、くれなかったの?」 「…えと…あ、…あの…ひが…」 言いづらそうに身を縮めている三橋に、阿部は混乱する。ひが?火が?非が?日が?日?日は…。 阿部は自分の誕生日を思い出し、それが三橋に進路を告げて泣かせた日から数週間後のものだったことに気がついた。三橋の泣き顔がふっと脳裏をよぎる。あれからほとんどまともに二人で話さなかった。三橋が自分に贈り物をしようとしていたなんて、阿部には思いつきもしなかった。三橋は買ったはいいが気まずくて渡すこともできないまま、何となく持ち続けていたらしい。 「…あー、ごめんな、なんか」 「う、ううん!」 「でもいいよ、何か今更って感じだろ。おまえ使えよ。こんな高そうなペンオレに勿体ねえよ」 「え、だ、だめっ…」 今日はやけに三橋に駄目出しされる日だなと思いながら、阿部は目の前の俯いた三橋をぼんやり眺めていた。耳たぶが赤い。頬にも血がのぼって、湯気が出そうだ。 「お、オレの使った後…みたいで悪いん、だけど、全然使って、ない、から」 阿部の方が少し背が高い上に三橋が背を丸めているので、自然と阿部が三橋を見下ろす形になる。長い睫毛が上下する合間に光るものが見えて、暫くしてから阿部は、それが潤んだ目の映す光であることに気がついた。 「あ、でも、それでもお古、みたいだけど、オレ、阿部くんにつ、使って、ほし…」 泣きそうに下がった眉、大きすぎる瞳、こいつ本当に顔赤いな、熱ねえかな、と阿部が黙って考えていると、遂に三橋がばっと顔を上げた。 「あ、あべ、く」 うわっと阿部は思わず身を引いて、鼓動が走り上がっていくのを感じた。こんなに強い眼差しで人から見られるのは久々だった。いや、こんな目で見てくるのは三橋だけだったか。そんなことより阿部は、この鼓動が単なる驚きと明らかに違うものらしいのに戸惑いを覚えていた。だんだん訳が分からなくなる。 「…っかったよ。サンキュ。そんなに言ってくれんなら貰う。返さねぇぞ」 「う、ん!ありがとう!」 阿部の言葉にぱっとはじけるように笑った三橋の顔に、阿部はぐっとつまった。 (…なんでこんな) (なんでこんなこと、考えてんだ、) (……なんか頭熱い…) 「やっぱりオレ、お茶入れてくる!お風呂も!」 一気に雰囲気の明るくなった三橋は立ち上がると、ぱたぱたと廊下に出て行った。 (違ぇな。オレ、そう思うの初めてじゃねえ。高校、の、時も) 阿部は頭を抱えて大きな溜め息をついた。自分でぴったりと蓋を閉めていた感情が、波のように溢れ出してきていた。夕焼けに染まった頬、こちらを振り返って流れ出す笑顔、くしゃくしゃの柔らかい髪、日焼けして赤くなった首筋、自分を呼ぶ声、差し出すと吸いつくように寄せられた白い手。 「阿部くん、お茶、です」 目の前で、三橋が笑っていた。 (オレ、こいつに会いたかったんだ) (オレが会いたかったんだ。死ぬほど会いたかった。会ってる時は気持ちをどうしていいのかわかんなくて、会ってない時は心配で仕方なかった。笑ってたら嬉しかったし、泣いてたら不安になった。意思が通じなくてよくキレてたけど、通じた時は世界で一番仲いいダチみたいな気がしてた) |