影踏みアリア 6



 数十分ぶりの再会を果たした三橋は、改札機の向こうで体を竦めるようにして立っていた。縮み込んだその姿は、改札を駆け抜けて来た阿部を見て、なおさら緊張したように固くなった。
「…あ、あべ、くん」
三橋の前に来たものの息を整えるだけで何も言わない阿部を、三橋は気遣わしげに見上げた。
「どうした、の」
阿部は黙って三橋をしばらく見下ろしていたが、そのまま何も言わず鞄を探った。取り出して来たのは、先ほど三橋が押し付けたペンだった。
「これ…」
三橋は阿部の掌にあるそれを凝視して、絶句した。
「…おまえさ、訳わかんねえよ」
阿部はぽつりと呟いた。
「なんか変なんだよ。おかしいだろ。全部うまく行ってるみたいなのに、おかしいんだ。おまえも、オレも」
三橋は沈黙していた。
「オレら体とかでかくなってて、三橋は野球うまく行っててオレも方向性決まってて、夢とか将来とかあるだろ。友達も彼女もいるし。三橋は話わかりやすくなったしオレもちょっとは気が長くなった、と、思う。この間勘違いしてたことも、解決したと思うし」
三橋の瞳が、僅かに揺れた。
「でもおまえさ、今すごいバランス悪いような気がする。キャッチボールとかペンとかやたらこだわるし。オレの気のせいかもしれないけど、でもオレの気のせいはおまえに限っては当たるんだよ。オレおまえのキャッチャーだったから」
三橋は顔を上げて、阿部の目を見た。
「それでオレは、何でこんな頭グチャグチャなんだよ」
阿部の眉根が寄り、奥歯を噛み締めて顎の筋肉が動いた。それを見た三橋は、途端にくしゃりと顔を歪めた。泣く寸前のその表情のまま、縋り付くように阿部に右手を伸ばし、そのまま自分のジーンズを握りしめた。
 二人は黙り込んで俯き、切符売り場の前で立ち尽くしていた。時折勤め帰りの人々が不思議そうに彼らを振り返っていったが、阿部も三橋もまるで二人きりのように凍えていた。

 背後から最終電車がホームに滑り込んできた時、三橋はびくっと肩を震わせて阿部を見上げた。阿部は夢から覚めたように目を開いて、微かに振り返る仕草をした。
「悪い、おまえ朝練」
阿部がそう言いかけた瞬間、やにわに三橋の右手が阿部のジャケットの右腕を掴んだ。
「いかないで」
「みは」
「っ、ごめ」
三橋は顔を背けて、それでも手を離さなかった。瞳が涙の膜で覆われていく。
「ごめん」
「ごめんなさい」
そう言いながら三橋は真っ青な顔色で、それでも電車がホームを出て行くまで、その手を離そうとしなかった。
「…え、三橋」
「ごめんなさい」
「オレ今日どうしたらいいんだよ」
「…お、オレの部屋で、よかったら、…」
「あー、…いいよ、こんな時間に来たのオレだし。ネカフェどっかにあるだろ」
「だ、だめっ」
「駄目って」
「ベッド無かったら、体変になる…」
「…いいよ、オレもう選手じゃねえし」
阿部が淡々とそう答えると、三橋は遂にしくしく泣き出した。そこを電車に乗り損ねた酔っぱらいに絡まれて、つい三橋を庇った阿部は、そのまま泣いている三橋に腕を掴まれて夜道にずるずると引きずり出された。
 少し冷たい風が街灯の下を吹き抜けて、微かに散りかけた桜の香りを残していく。三橋の後頭部を眺めながら、阿部は妙な新鮮さを感じていた。いつでも自分が先に立って、三橋は数歩遅れて付いて来た。親しくなってもその習慣はほとんど直らなかった。それが今になって、こんな風に位置が逆転している。
(…違うか。初めてじゃねえな)
(あの時も、あいつの頭の後ろぼんやり見てたな)
阿部は、ふと思い出していた。

 反応がないと思って阿部が見ていると、無表情だった三橋はくるりと背を向けた。二人で野球部の後輩の様子を見に行った帰り、冬の夕方、風は乾いていた。三橋が嬉しそうに『二人で同じ大学に行ってまたバッテリーを組む』前提の話をするのに耐えかねて、言いそびれていたことを阿部が伝えた後のことだった。
「オレ大学、受験する。…夢があるんだ。それで、野球も、やめる。野球やる余裕ねェと思うんだ」
一息に言ってしまってから、自分でもそうかと実感が湧くような有様だった。だが三橋は少し目を見開いて、ちょっと強い風が吹いたような表情をしていたきり微動だにしなかった。それから、不意に阿部に背を向けたのだ。
「…三橋」
 三橋は少し肩を丸めて、白い首筋を風にさらしていた。ココア色のコートがやけにだぶついて見えた。寒そうに見えるのがどうしてなのか、阿部は三橋が黙り込んで俯くといつも持つ感情の波立ちを覚えた。肩をつかんで三橋を振り返らせようかとも思ったが、三橋の気持ちを思うと複雑で、結局自分から三橋の前に回り込んで、その顔を覗き込んだ。
 三橋は泣いていた。泣いていたけれど、声も出さず、表情もほとんど変えずに泣いていた。マネキンが水をかぶったような、何かの間違いのように目から涙だけがぼろぼろとこぼれていた。嗚咽もなく、電池を抜かれたようにぴたりと止まって、あの我慢のできない三橋が、人形のように泣いていた。そんな顔を阿部は見たことがなかった。声の出し方が一瞬分からなくなった。三橋がいつものように感情丸出しでわあわあと泣いて愚図ついてくれたらまだよかった。だが目の前の三橋は、自分の意志とまるで反するかのように、余りにも不自然に泣いているのだった。
「…ごめん」
しばらくして、謝ったのは三橋の方だった。
「…ごめ、阿部くん。な、…泣いちゃ、だめ、って、分かってるんだ。泣くことじゃない、よ、ね。あべく、阿部くんには、ゆめが、あるん、だ」
「…だから、ゆめ、を叶える人、に泣いたり、したら、いけないんだ」
「ごめん、あべくん、ごめん。ねえ、ね、ごめ」
三橋は自分に言い聞かせるように呟いてまた泣いた。視線はずっと自分の爪先あたりで、阿部は三橋のつむじを見ながら返事に窮していた。
「…三橋…」
三橋の気持ちは痛いほどよく分かった。三橋がどれほど、二人一緒の大学の推薦を貰えて喜んでいたかをその目で見ていただけに、阿部は三橋の気持ちを裏切った気がしてならなかった。三橋はよく言っていた。
『みんなでずっと一緒に野球をしていたい』
おそらく、本気で西浦高校硬式野球部一期生全員同じチームに入りたいくらいには思っていたはずだ。それは無理でも、阿部一人でもその『ずっと一緒』が四年伸びて、三橋は心から嬉しかったのだろう。阿部は何と言えばいいのか分からなかった。悪いことをするわけじゃない、三橋は一人でやっていける、とむしろ自分に言い聞かせて決断した一月前の自分の頭を思い切り小突いてやりたかった。それでも、決断は変わらなかっただろうが。
「阿部くん!」
不意に三橋が顔を上げた。余りに必死なその表情に気圧されて、阿部は一歩後ろに下がった。
「阿部くん、どこの大学に行くの!?」
「…K大」
「そこ、野球部ある、かな」
「あるんじゃないか」
「オレ、オレ、そこ行ったら…」
「おまえの成績じゃ無理」
「…で、でも」
「…それにオレ、野球やめるよ」
「……そ、か」
二人とも黙り込んで俯いた。数秒遅れて、三橋は顔をくしゃくしゃにして泣いた。阿部は胸をぎゅうと上から押さえつけられるように苦しくなって、三橋の頭をぐしゃぐしゃに撫でると抱え込んだ。三橋の嗚咽の振動が直接伝わってきて、阿部も鼻の奥がつんと痛むのを感じた。吐きそうなほど謝りたかったが、できなかった。







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