若緑のねむるころ 9
日曜の朝、いつも規則正しく定時に起きる一樹が朝食の間に出てこないので、キョンは少し案じて長門が配膳するのを待たせていた。半時間が過ぎ、結局キョンは一樹の寝所に声をかけに行った。 「古泉」 キョンが呼びかけていらえはない。障子の中は暗く、ことりとも物音がしない。開けるぞと一声おいてキョンが障子を引くと、青いうわがけがこんもりと人型の山をつくり、そこに確かに一樹は眠っているらしかった。キョンはいささか不安になって、布団に近付くと静かにその顔をのぞき込んだ。 一樹は頬を紅潮させて眠っていた。額に微かに汗をかいている。六月の蒸す陽気とはいえ、まだ朝はそう暑くない。寝息も少し荒いのを見てとって、キョンははたと妹のことを思い出した。数年前のあの暑い夏の日、風邪をひいて寝込んだ妹をキョンはずいぶん心配したものだ。その時の妹と寝顔が似ていて、思わず手が出た。そっと白い額に掌を重ねると、じんわりと熱が伝わってくる。自分と比べると、睡眠中ということを差し引いても熱すぎるようだ。キョンは慌てて立ち上がり、大股に部屋を出ると長門を呼んだ。 やはり一樹は風邪をひいていた。彼は昼前にぼんやりと目を覚ますと体を起こして、はずみで額から落ちた濡れ布巾をしげしげと眺めた。それから、部屋の隅の座布団にあぐらをかいて本を読んでいるキョンに気がつき、ぎょっとした。 「何をしていらっしゃるのですか」 そう思わず問うてから、あまりにがさついた自分の声にまた驚いた。喉に手をあててぼんやりしていると、キョンは本を閉じて枕元に座布団を引いて移動してきた。 「古泉、おまえ風邪なんだよ。時計見てみろ」 一樹は素直に時計を見てため息をついた。 「汗が冷えたのでしょうか。不注意ですみません」 「謝ることないだろう。何か腹に入れて薬飲んで寝てろ」 「今日が日曜でよかったです。学校を休まずにすみました」 「そこは残念がるところだよ」 キョンは笑うと、本を置いて廊下に出た。彼が長門を呼ぶ声を聞きながら、一樹は彼が残した文芸雑誌をそっと手に取った。彼は小説が好きなのだ。一樹はつくりごとが苦手で入り込めないので、縁遠いその世界をなんとなくうらやましく思う。頁についた折りじわを撫でると、まだ彼の体温が残っているような気がして不思議だった。今日は珍しく梅雨に似合わぬ爽やかな風が抜けて、その熱もさらっていってしまうように思う。なぜか、それが惜しい。 一樹が無理を押して食事をとり、薬を飲んで横になった後も、キョンは手持ち無沙汰に本を読みながら一樹の隣に座っていた。てきぱきと世話をした長門が氷水の入ったたらいをキョンに押しやると、キョンは軽く頷く。退座した長門の代わりにキョンが一樹の額の上のぬるくなった布巾を取り替えると、一樹は呆然としてしばらく反応しなかったが、その後すぐに体を起こした。 「やめてください。長門さんにしてもらいます。そんなこと、やめてください」 「いや、長門も忙しいし」 「自分でしますよ。長門さんも何考えてるんでしょう、こんな風にたらいを置いて」 熱のせいもあるのか、気が動転したようになっている一樹にキョンは苦笑すると、一樹の肩を押して寝かせた。 「長門はよくわかってるよ。俺の性格も、何したいかも、察しがいいから」 その科白に、一樹は急に黙り込んだ。むっとしたようにも見えた。 「…それは、僕は長門さんほど長く近くにいませんから」 「うん」 「でも、僕はあなたに身の回りの世話をさせて、それで平気でいられるほど厚顔ではないつもりです」 「ああ」 「ですから…」 「だが、俺はおまえの飯をよくよそっているんだが、あれはどうなるんだ」 一瞬言葉に詰まり、それはそれ、これはこれだと思った一樹にキョンは畳み掛けた。 「前に妹が熱を出したときも隣にいたんだよ。まあいろって言われたんだけどな」 少し微笑んだキョンは、おまえは弟も同然だからな、と呟いた。その言葉に一樹は急に力が抜けて、熱っぽい体をおしてキョンに抗うのをやめた。彼に世話をされるのは申し訳なかったが、隣からいなくなってほしいわけではなかった。 しばらく一樹はうとうとと浅い眠りに落ち、ふいに意識が浮上すると、微かに紙をめくる音がする。それに安心して、一樹はまた眠り込んだ。 次に目が覚めたときは三時過ぎだった。キョンの手の中の本は文芸雑誌から厚い小説本に替わっていたが、その少し丸めた背や伏せた瞼は眠る前と変わらなかった。一樹はまた少し食事をして薬を飲むと、汗をかいた敷布や寝巻を長門に替えてもらい、少しすっきりして布団に入り直した。 「何か他にしてほしいことはあるか」 キョンにそう問われて、一樹は慌てて首を振った。だが、ふと思いついてそれを止め、じっとキョンを見上げた。 「あの、…もしよろしければ、ひとつだけお願いがあるのですが」 「なんだよ」 それを言うのが一樹は少し気恥ずかしく、ためらわれた。だが今は常とは違うし、それはずっと頼みたいことだった。 「オルガンを弾いてくださいませんか」 「オルガン?」 一樹が頷くと、キョンは少しの間思案顔をしていたが、へたくそだぞ、と大真面目に一樹に言うと次の間へ襖を開けて出て行った。 しばらくすると、いくつかの襖の隙間から、どこかぼけたような音が風に乗って伝ってきた。 「…しばしもやまずにつちうつひびき…とびちるひのはなはーしるゆたま…」 合わせて口ずさみながら、一樹はキョンが唱歌の伴奏を弾くのは妹のためかと考えた。以前住んでいた館にあった、弦をはじくピアノとは違う乾いた音が、一樹の胸にしみとおった。たまらずに背中を起こすと、キョンが開け放していった数枚の襖の向こうの畳に彼の影が見えた。動かす腕に合わせて静かに揺れている。傾いてきた陽、そっと頬を撫でる風、体を包むように寄り添うそのオルガンの音。一樹は一生、この瞬間を忘れないだろうと思った。胸から溢れそうにいっぱいになったあたたかいものは、一樹を殺すほどせつなくきりりと喉元を刺して、彼はそっと目頭をぬぐった。 |