となりの体温 8
けたたましい電子音が空気を裂いてキョンの耳に届いた時、二人はまだ自分たちが何をしているのかをはっきりと分かっていなかった。自覚してすぐ、その鼻先に体温を、睫毛の先に触れる瞼を、前髪の絡まる瞬間を、その時とっさに身体を離したのは古泉だった。古泉は呆然としてさっと頬を染め、後ずさりすると数回首を振った。キョンは遠くなった暖かさが無性に恋しく、身体に満ちたものがずるりと抜け落ちて行くのを感じていた。無言で繋がった視線をそのままに、古泉はどこか逃げ場を探すように必死でポケットの携帯電話を探った。 「行くな」 古泉が小さな液晶画面に視線を落とした瞬間、その台詞がキョンの口をついて出た。古泉は肩を落として顔も上げないままでいる。長めの髪が白い額と伏せた瞼を隠す。 「バイトです」 「行くな」 「どうして」 「お前そんな身体でどうするんだよ!」 「今までも何度もこういう状況はありました。あなたがご存知なかっただけで」 「今は知ってる。知ってるんだから止める。こっち見ろ古泉」 古泉は俯いた顔を上げた。僅かにキョンを見下ろす形で睨みつけ、口をつぐんだ。キョンもまた古泉を見上げ、静かに二人は睨み合った。古泉の眉は徐々にきつく寄り、たまらないように何度か口を開きかけたが、結局何も言わなかった。 その時、バタンと扉の開く音が廊下の離れから聞こえてきた。同時に、キョーン、と鳥が歌うような少女の呼び声が響く。 「いつまでもどこ行ってんのよ!早く帰ってきなさいよ!」 その声は強気な調子で、なのに頼りなげな残り香が漂う。細くまだ成熟しきらない折れそうな声だ。それが、緊迫した二人の空間にめりめりと差し込んで溶けた。 「ほら、呼んでますよ」 古泉はどこかほっとしたように笑っていた。安堵したようで、やはり諦めきった顔つきだった。それが自分にはお似合いの表情だとでもいうように、古泉は落ち着き払って絶望していた。キョンにそれ以上何が言えただろう。彼がここにとどまればとどまるほど、古泉の負担が大きくなることは明白だった。キョンのすべきことは、古泉の前でぐずつくことではなく、ハルヒの心のバランスを取ることだった。 「古泉」 キョンがそう呟くと、古泉は目を糸のように細めて微笑んだ。キョンの考えていることは手に取るように分かっている、そういう表情だった。 「行ってきます」 キョンは不自然に真っ白なシャツの背中を見つめて立ち尽くした。まっすぐで曇りの無い、それでいてさっぱり正体のわからない、古泉らしいといえばあまりに古泉らしい後ろ姿だった。 「……気を、つけて」 キョンがそう囁くと、古泉はゆっくりと右手を上げた。 「遅いじゃないのよいつまで待たせるつもりなの!」 部室の扉を開くなり降り掛かってきたハルヒの声にキョンは肩をすくめてため息をついた。 「悪かったな。何の用だよ」 「それより古泉君は?」 「知らん、俺は場所まで連れてっただけだし」 「ふうん、…あら、荷物」 「あ」 二人の視線の先には、古泉が置いたまま椅子にもたれた革鞄があった。その時まで上の空だったキョンはそこでやっと目が覚めた思いだった。自分でも驚くほど冷静に、いい口実ができたと喜んでいた。 「あいつ舞い上がってるな。帰りに家に届けてやるか…長門」 キョンが長門を見ると、長門は何もかも見透かすように僅かに目を眇めて、シンプルにひとつの住所を答えた。 「それが彼の住所」 「すごいじゃない有希!よく知ってるわね!キョン、ちゃんと届けてあげるのよ、私の用事が済んだら!」 「はいはい」 キョンは頷いて二つの鞄を握った。古泉の鞄の握り手はひんやりとして、それがキョンの気持ちをざわざわとさせた。ハルヒに引っ張られて下足箱に向かいながら、キョンは暗示をかけるようにひたすら自らに言い聞かせた。 (大丈夫) (大丈夫だ) (古泉は大丈夫だ) 目を開くと、夕陽に輝くような笑顔を浮かべたハルヒが手を振っていた。この笑顔をそのままにすることが自分に出来る全てで最上だという事実を、キョンは歯ぎしりしたくなるほど知っていた。ハルヒと並んで坂道を下りながら、からかって笑いながら、電車で隣り合った吊り革を握りながら、キョンは溺れた人のように必死で息継ぎをした。あるいは息継ぎをしているのは古泉だと思い、あらゆる瞬間に今しがた触れた体温を思い出し、それを未だ消化せず認識もできないままに、ただ全ての隙間で絶えず古泉のかたちをなぞっていた。抗いようもなく、襲いかかる嵐のようにそれはとめどなくキョンの意識の何もかもをさらった。古泉の不自然に曲がらない背中、腕の傷、火照った身体と冷や汗で湿ったシャツ。その一方で転びかけたハルヒの腕を支えてやり、荷物を代わりに持ってやり、絶えないおしゃべりに笑って頷いた。一歩踏み出す毎にキョンは自分がばらばらになるのではないかと危惧した。それはほんの二時間やそこらのものでも、キョンの力を根こそぎ奪っていくに十分なほどの恐怖だった。そしてその感覚はそのまま古泉のものではないかと気づいて愕然とした時、やっと夕陽が沈んでハルヒが別れを告げ振った手が角の向こうに消えて行ったのだった。 左手にぶら下がった革鞄の重みと、長門の唇が囁いたその場所。 キョンは時計を見て、跳ね上がるように駆け出した。こんなに全力で走ったのはいつだろうと思った。住所の目星は大体ついていたが、マンションの場所や形までわからない。交番に行ってきちんと聞くか、いや地図を見たら大丈夫か、などと忙しく考えながら、長い影を弾ませて腕を振って一心に走った。 俺は古泉に会ってどうするつもりなのだろう、とキョンは頭の片隅で考えた。考える端から、古泉の青白い顔と高い体温が入り込んできて思考を邪魔した。もうどうしようもなく会うしかないのだ、とキョンは諦めた。そこに行くしかない。会って顔を見ないと、あいつが無事なのを見ないと、もうどうしようもない。 それで結局、キョンは何の結論もないままに真っ白の極めて平均的なマンションの前に仁王立ち、息を切らせて窓を見上げたのだった。 |