となりの体温 6
それからの古泉の変化というのは、キョンにはちょっと予想しかねるものだった。 古泉は一見、何一つ変わらなかった。どことなく緊張しながら部室に入ってきた次の日のキョンにも、パーフェクトな微笑みを披露してみせたし、実際団員の誰一人として変化に気付いた者はいなかった。正直なところ、キョンはその様子に拍子抜けしたもののほっとしていた。電話口の切羽詰まった口調の男は、どこにもいなかった。実際、電話をした次の日の部室で古泉と顔を合わせたキョンは、その何事も無かったような様子に、前日の出来事が夢であったかと思ったほどだった。 けれど、やはり何かが違った。最初、それがキョンにははっきりと分からなかった。ただ、息苦しいほどの思いで、その違和感に耐えていた。古泉と向かい合ってカードゲームをする。その二脚の椅子と挟んだ長机だけの狭い空間が切り取られて、空気が濃密に変化しているのを感じる。古泉の骨筋が見える手も、その長い指も、しわのない制服もいつも通りなのに、キョンは顔を上げることができない。傍目にはゲームに集中しているように見えたかもしれない。その実全くの上の空だというのは、キョンをひどく混乱させた。目の前の男は、いかにも落ち着き払ってカードをひっくり返しているのに。 俺が意識し過ぎているのかもしれない、とキョンは思い、そのことを腹立たしく感じた。考え事ばかりしていて、プラスチックのカードが指から滑り抜ける。場に出そうとして向かいに滑っていったそれを、古泉が拾い上げた。 「どうぞ」 「あ、悪い」 キョンは手を伸ばしてカードを受け取る。古泉の親指が、裏に返したキョンの指に触れる。微かに伝わる温度と、滑らかな爪の縁。 キョンは思わず顔を上げた。その日初めて、まともに正面から見る古泉の顔だった。知らず、息が止まった。 こんな時いつでも、古泉の指は少し引いた。キョンの指に触れたことで火花でも散ったかのように、一刹那動きを止めて、あっという間に離れていった。その一連の動きで、彼の周りの空気が硬直し、ほどけていく。強ばった頬と、それがゆるゆると抜けていくさま。後に残る古泉の表情に残るのは、いつもいたいけない少年のようなはにかんだ微笑みだった。 だが、その時の古泉は、手を引かなかった。キョンと目が合っても、彼は表情を変えなかった。空気は緊張感はあっても、決していやなものではなく、ただ凪いだ海のように微笑んでいた。その途方もない瞳の深さと甘さに、キョンは息を呑んだ。胸がきり、と痛んだ。思わず目を逸らした。 こんな目を見たことがない。こんな微笑みも。 こんな風に遠くから、諦めきったように笑う者を見たことがない。 その古泉の視線は、微笑は、キョンの日常に溶け込んでいった。振り返ると、いつも古泉は遠くを眺めるような眩しそうな目で、キョンを見ていた。その唇は、いつも小さな曲線を描いている。キョンはそれが、いつも訴えていることに気づいている。何を求めるわけでもなく、ただキョンにその想いを歌っている。潮が寄せては返すように、彼の溢れるような気持ちがきらきらとぶつかって、高く低く響き渡っている。 でも古泉は何も言わない。キョンは視線を避け続ける。頬杖をついて、足を組んで身体を傾げて、その空間に浸り込むことから逃れる方法を考える。それなのに、キョンはいつも部室に来ては古泉の前に座って、ゲームの誘いを断らないのだ。そこにいたいというよりは、どうしようもなくいざるを得なかった。キョンは迷いながら、古泉の前から足が動かないでいた。 「どうしました?」 キョンがオセロ盤を見つめて黙り込んでいると、古泉は小首を傾げて覗き込んだ。目だけでそちらを見ると、古泉は目を細めてキョンを見ている。その明るい穏やかな視線は、日を経てもキョンを苦しくさせた。心臓が圧迫されているように痛んで、言葉が喉の奥に詰まる。何かを言いたい、けれど、言えない。キョンは自分が何を伝えたいのかも分からなかった。 「…考え事してた」 「そうでしたか」 「古泉、今日はいつもよりいい感じだな」 「ああ、僕も実はそう思っていたんです。勘違いかとも思いましたが、あなたにそうおっしゃって頂けるなら間違いありませんね」 古泉は、日溜まりに座る猫のような顔をして笑う。暖かい柔らかなその空間で、彼は満足しきったように微笑んでいる。ひどく安らかで、平穏な世界に身を置くように。机に載せた左手には、どこでつけたかを想像させる切り傷の名残が残っているというのに。 それを見た瞬間、ふと波のようにキョンの胸中にわだかまりがせりあがってきて、抑えられずキョンは机の上の古泉の掌を掴んだ。がたんと小さく机が揺れる。幸い部室には二人しかいなかったが、もし他の者がいても、やはりキョンをその手を掴んだだろう。キョンの身体いっぱいに言いたいことが詰まっていて、そのどれもが行き場なくくすぶり続けていた。 古泉は少し驚いて目を見開いて、僅かに身体を引いた。その視線は、キョンのきついそれと交わる。一瞬薄い唇が動いて、睫毛が二、三度瞬いた。けれど、それだけだった。古泉はふっと掴まれた左手を見下ろした。 「どうなさったんです」 古泉の右手が、そっとキョンの掴む手を外す。その僅かな間、キョンの右手は古泉の両手に挟まれて、一体となったようにざあっと血が巡った。その異常な感覚に戸惑っていると、やはり古泉も動きを止めて黙り込んでいたが、それでも何も言わなかった。古泉はキョンの右手を自分の左手から剥がして、そっと机に置いた。そして、まるで何事もなかったかのように、再びゲームに戻った。 キョンには、古泉が果てしなく遠くにいるように感じられた。二人がやっとの狭い空間に閉じこめられて酸素を分け合っているのに、古泉はキョンがそちらを見ると、目を逸らしてずっと彼方へ離れてしまう。古泉はすっかり満たされているのだ。キョンを眺めながら、決して視線を合わせようとはしない。手が届かない、たとえキョンが必死に呼んで手を伸ばしても。 呼んで、手を伸ばしても? キョンは愕然とした。名前を呼んで、手を伸ばして、それからどうするつもりなのだろう。自分は古泉の気持ちに応えるつもりはないのに。何に満足しているんだと叫びたい一方で、自分が一体彼に何がしてやれるのかまるで分からなかった。 この涼しい顔をして笑っている男、ひどく重い荷物を背負って肩を竦めている男、その荷物を支える手助けもできない自分が、彼の傍にいて何ができるのか。 目の前の古泉は、ゆっくりとオセロの石を返している。その冴え冴えとした顔を見ながら、キョンは呆然としていた。今更気がついた。キョンが気持ちに応えるも応えないもない。古泉にとって一番ためになることは、彼の言うところの神を満足させることだった。それは間違っても、古泉とここでだらだらと漂流していることではない。そんなことをしていても、彼の荷物はなおさら重くなるばかりだ。 俺達はどこにも行けない。がんじがらめだ。 一瞬音が遠くなって、キョンは瞼をぎゅっと閉じた。 |