影踏みアリア 4
駅から少し歩いた住宅地に続く手前に、小さな公園があった。夜も更けてきたせいか人影は見えず、ぼんやりと街灯が丸い光を投げていた。 「ここでいいか」 阿部が訊ねると、三橋は黙って頷いた。店を出てからずっと黙り込んだままで、公園には二人の砂利を踏みしめる音しかしなかった。 ベンチに荷物を置くと、二人は街灯の届く辺りで適当に距離を取った。三橋の細い影がするりと腕を伸ばす。軽い球がゆっくりと、正確に阿部の手元に弧を描いて落ちる。相変わらずのコントロールは軽い酔いなら問題にならないらしい。阿部は自然に笑みを浮かべながら、その球を握って構えた。この硬球を握る感覚。正面に三橋がいて、自分を見ている。まるでタイムスリップしたようだった。ぱあっと太陽が上がると、二人ともユニフォームに身を包んで、球で会話しているのだ。 二人は黙々とボールを投げ合った。すぐに以前と同じリズムが生まれる。薄い光に幾筋もの白球の弧が描かれた。受け止める乾いた音と、微かな息づかい。 そうしてある一瞬、三橋が阿部からの球を受けた後、そのままボールを両手で掴んで息を大きく吐いた。 阿部はボールを受け取ろうと挙げた手を降ろして、三橋が俯き、だんだん猫背になっていくのを見ていた。ボールを抱きしめるようにシルエットが丸くなって、脚が震え始める。かつて何度も見たその一連の動作は知りすぎるほど知っていて、その後何が起きるかを知っている阿部は、身動きも取れず棒立ちでいた。 三橋の大きく開いた目から大粒の涙がぼろぼろとこぼれ出して、二、三度激しくしゃくり上げた後、ようやく阿部は声を出すことができた。三橋、と小さく呼ぶと、三橋は答えようとして嗚咽を漏らした。涙を拭うことも忘れたように、足下の一点を見つめてただしゃくり上げている。阿部は足を動かすことができなかった。近づいていいのだろうか?手を握ってやったら三橋は落ち着くか?もうバッテリーじゃないのに? 「あ、あ…べくん」 少しの間をおいて、なおしゃくり上げながら、目をごしごしとこすって三橋は阿部を呼んだ。 「…なに」 「阿部くん」 「なに」 「オレ、オレ…オレ、ずっと、ずっと、ずっと、阿部くんに、な、投げたかった。もう、ずっと。大学入ってからずっと、」 三橋は途端に地面にしゃがみ込んで、その時金縛りが解けたように阿部は三橋に駆け寄った。隣にしゃがむと、三橋は顔を上げて阿部の顔が近くにあるのを見て、そのままわあっと子供のように泣き出した。 「なんで、なんで、オレ、阿部くんに投げられないんだ。あべく、あべく、んが、座ってないと、オレ、阿部くんに投げたいのに、…んで、なんで、阿部くん、いないんだ」 「ごめん」 ほとんど反射的に阿部は三橋の手を掴んで謝った。二人とも手は冷えきって、微かに震えていた。 「ごめん」 「…っ」 「ごめん、三橋」 「阿部くん、なんで、会っても、くれなかったの」 「…ごめん」 「いずっ…い、泉くんの試合、には、行ってた、のに、オレ、オレだけ、オレだけ、」 「ごめんな。ごめん。ほんとにごめん」 どうしようもなくやりきれなくなって阿部が三橋の肩を抱くと、三橋は壊れた機械のように、声をあげて泣いた。 「オレびびってたんだよ、多分」 やっと泣き止んだ三橋をベンチに座らせると、阿部は隣に座ってぽつりと呟いた。 「自覚ないだけで、実は野球にすげえ未練あるんじゃないかとか。ずっと野球漬けで来て、野球のことしかわかんねえし。…目標叶えたいのは本当なんだ。研究面白いし、やるならとことんやりてえし。…でも本音では、野球で食ってける自信が無かったから逃げたんじゃねえかって思うことがある。そんなこと思ってねえんだけど、もしちょっとでも本当はそう思ってて気付いたりしたらなんかすごい気持ち悪ぃしとか。…っか、言ってて恥ずいな」 三橋は真っ赤に腫れた瞼を二、三度瞬かせて、黙って阿部を見つめていた。 「最近になって時間も空いて、ちょっと落ち着いてきたんだと思う。今なら冷静に見られると思うよ。おまえのピッチングも」 そう言って阿部が三橋に小さく笑うと、三橋はぼんやりした顔で訊ねた。 「…じゃ、あ、オレのこと、き、……きら、嫌いに、なったわけ、じゃ…」 「…はあ?」 「だ、だってっ、泉くんの試合に、はっ」 急に顔を真っ赤にして言い募る三橋に、思い切って感情を吐露したつもりの阿部は脱力したが、なんだか三橋らしくて笑ってしまった。 「おまえ、やけにそこにこだわんね。ごめんって。嫌いとかじゃねえよ。オレら結構仲よかったじゃん」 「…じゃ、な、なんで」 「あー。うん。何て言うんかな。オレらすげえ近かったじゃん、バッテリーだから練習でも試合でも。だから泉の野球とかは自分と切り離して普通に見られんだけど、おまえはな。なんかなあ。そういう風に行かねえよ」 「…う」 あまりよく理解していないらしい三橋に、阿部は大声で言い聞かせた。 「とにかく!オレはおまえのこと嫌ってるとかじゃねえから!これだけちゃんと覚えとけ。わかったか」 「う、うん、嫌って、ない」 「大学蹴ったんも、勉強に専念するつもりだったからだぞ。野球で推薦貰ったら野球やらなきゃだろ。同じ大学嫌だとかじゃねえぞ」 「そ、う、なの」 「そうだよ!おまえは何聞いてんだよ!」 「ご、ごめ」 三橋はそう言って頭を押さえて、ふにゃっと微笑んだ。 「ごめん。阿部、くん。…ありがとう」 その笑顔を見て阿部は、三年ぶりに初めて、三橋の本当の笑顔を見たような気がした。その瞬間にようやく胸のつかえが取れた。自分が本当に引っかかっていたものが何だったのか、阿部は気付かされたような思いがした。それで、胸がふといっぱいになった。 だからその後、今度試合を見に行く約束をして、駅で別れて、ホームでちょっと手を挙げて挨拶して、電車に乗って鞄の中の携帯を出そうとするまで、阿部は気付かなかった。 「ペン、…返してねえじゃん」 鞄の中で、青いペンはぴかぴかと光っていた。 すぐペンのことを三橋にメールすると、三橋はまた会おうと返信してきた。こいつそんな暇あるのかと阿部は疑問に思ったが、指定してきたのは阿部の授業がない夕方だったので、何となく納得してしまった。三橋のことだから次の試合の時でいいと言うかと思ったが、わざわざすぐ会いたがるということは、やはり大切なペンなのだろう。阿部は何となく茶化したくなって、『そんな大事なペンなのにごめんな』と送ると、三橋は大真面目に『うん、大事なんだ。でもいいよ』と返信してきた。阿部は不思議に思いながら携帯を眺めた。 その日、優子からも連絡があり、阿部は会う日を確認された。三橋と会うと決めた日が実は前に優子とデートすると決めていた日であったことを思い出し、焦ったものの後の祭りだった。阿部も三橋も忙しいし、阿部は三橋に返さなければいけないものがある。阿部は事情を話してとりあえず謝り、優子との約束は延期した。優子は『仕方ないよ』とすんなり許してくれて、阿部は物わかりのいい彼女に感謝した。優子に三橋の話を少しだけした時、阿部は自然に『あいつオレの投手だったんだ』と言った。だった、と語尾が口の中で転がった。その後どうしてか、なんでなんでと繰り返して泣きじゃくる三橋の姿を思い出した。 |