その門をくぐると 1
オレの家には、常識が無い。 そのことに気が付いた時には、既に手遅れだった。 オレの両親は、割と考えなしにしたいことをするタイプだ。急に涼しい所に住みたくなったからと、九州から北海道に新居を構えたり、家族計画を突然変更して子供を増やしてみたり、ろくに飼育法も調べずペットを飼ってノイローゼに陥れたり、無配慮かつ無秩序なのである。悪気はないのだが、自分の思いつきだけで突っ走ってしまうところがあるのだ。 オレがなぜか幼い頃にしばしば女児の服装をさせられた原因は、そんなところにあるのだろう。 オレは小学校に上がるまで、男児としてよりはむしろ女児として育てられた。オレはそれが世間一般の常識なのだと信じて疑わなかった。つまり、ジェンダーは両親が決定し、それに従って肉体も成長を遂げると思っていたのだ。オレの友達は、女子が圧倒的に多かった。 母は、ずっと女の子が欲しかったらしい。 「だって昭夫、可愛かったんだもの。誰もサルみたいな子をわざわざ女の子にしようとは思わないわよ。あんたはね、本当に可愛かった。睫毛が長くて目がぱっちりして、髪もふさふさしててねー。女の子用の服着せたら、あんまり似合うし、自慢だったのよね」 というのは、中学生の悶々としたオレが問いつめた際の母の弁である。 さすがにこれ以上はまずかろうというので、オレの服装は小学生から男児用に戻され、髪も短く刈られた。その時の何とも言えない喪失感は、なかなか忘れられるものではない。オレの性格や趣味嗜好は男のそれだったが、少女趣味な服を着せられていたことが微妙に影響するのか、オレの思わぬところで他人が違和感を覚えることもあったらしい。 『二階堂くんの服って、ちょっとフェミニンだよね』 それは、オレの中学生時代ワースト5に入るショックな台詞だ。 かわいらしく中学生らしいお付き合いをしていた初めての彼女と、何回目かのデートの時に、そう言われた。衝撃的過ぎてよく覚えていないのだが、オレはかなり動揺していたのだろう、すぐ彼女はフォローしてくれた。 「大丈夫だよ、凄く似合ってるもん。二階堂くんは、女の私が恥ずかしくなるくらい顔綺麗だよー」 彼女は優しくて可愛かったけれど、何の発展もないまま、高校進学と同時にオレたちの仲は自然消滅した。 オレは多分、人より服が余計に好きだ。興味を持つのも同年代より早かったし、そのことに照れも無かった。母親の選ぶ「男っぽい」服に慣れたら、自分で服を選ぶようになるのはすぐだった。「男っぽい」という指向から「好みに合う」ポイントで服を選んだ結果が、十分男らしいつもりだったオレへの「フェミニンだよね」という評価だったわけである。 小学生の時、いじめられやすかったのもそれか。女子がいつも優しいのも、人気があるっていうより同類っぽいからか。男の煙草吸うグループとか悪ふざけするグループにあんまり誘われないのも、それか。 軽からぬコンプレックスを抱えたまま、オレは私立高校に進んだ。偏差値がかなり高い学校で、同じ中学からそこに行ったのはオレだけだった。まあ、つるんで時間つぶす仲間がいなかったせいで勉強する時間があったわけだ。 入学式の後のクラス顔合わせで教室を見渡すが、思った通り知り合いは一人もいない。もっともそういうやつが多いみたいで、妙にぎこちない会話があちこちで行われていた。オレもとりあえず出席番号順に座ると、後ろの男子に振り向いて声をかけた。 「な、知り合いとかいる?」 後ろのやつは大人っぽい顔立ちで、声もすっかり低く安定した静かな感じの男だった。 「いや。同じ中学からは、僕だけだな」 「そっか、オレもだ!名前なんての?オレ二階堂」 「僕は西根。…西根公輝」 「西根か、よろしくな!」 オレはちょっと必死だった。友達をさっさと作って、余り浮かないようにしたかった。入学直後辺りはかなり重要な時期なのだ。 「…よろしく」 そう答えた西根という男は、けれどまるで友達になる気がなさそうだった。会話の間、表情がほとんど動かない。切れ長の目にすっと通った鼻筋、薄い唇や白い肌も相まって、彼はデパートのマネキン人形のようだった。こいつはつるむタイプじゃないかも、とオレは思った。ならすぐに、別を当たらないと。何せ、時間が無い。 それでオレの高校生活がどうなったのかというと、心構えは十分だったおかげで、意外にも好調なスタートを切っていた。人間早くにちょっとつらい目に遭っておくもんだ。五人くらい適当につるむ仲間ができて、どうでもいい話ばかりしていた。女子のどの子が可愛いとかそういう話もしていたが、オレは特別その手のことにやる気を燃やしてはいなかった。なんせ中学の時男子からちょっと疎ましい感じに見られていたのは、誤解を恐れず言うなら、オレが妙に女子から厚遇されていたこともあるからだ。常にアンテナを張って空気を読む努力をしていれば、オレにだって普通に友達はできる。目立ちすぎず、適度に勉強して、コースアウトしないよう何事もほどほどに。そんな風にしてオレは、何となく毎日をやり過ごしていた。 一方、俺の後ろの席の西根とやらは、寡黙なタイプらしく騒いだりすることはまるでなかったが、どういうわけか時々一方的な感じの友達に話しかけられていた。本人は移動教室以外で席から立つことはほとんどない。いつも無表情に泰然と構えていて、オレは変わったヤツもいるもんだと思っていた。 その日はことさら暑い日だった。夏休み真っ盛りで、オレはつるんでるグループのヤツらとその一人の家で夕方からうだうだゲームしていた。愛想笑いばっかりしているオレは、実はこういう自宅遊びって苦手なんだが、付き合いなんで仕方ない。 「二階堂、わりー、下からジュース取ってきてくんない?」 「あ、うん」 「あ、じゃあついでに置いてる鞄取ってきてよ」 「わかった」 「わりーな」 しかも、やっぱりパシリキャラだし。何でだろうな、やっぱり愛想笑いとかしてるからか。 ジュースと鞄を取って二階の友達の部屋に戻ったら、何だかやたらと盛り上がっていた。 「何?」 「あ、二階堂。夜さあ、星見に行かねえって言っててさ」 「…星?」 それはまたロマンチックな。 「でもここからでも見えるだろ?」 「ばっか、お前、つまんないな。坂の上に女子寮あるだろ?」 「あー、あの古いの」 「あれの屋上で見ようって」 目の前の四人はニヤニヤしている。 「ちょ、それ、まずいだろ。いや、ていうか入れないじゃん?」 オレが焦ってそう言うと、四人はわっと笑った。 「お前何焦ってんの。あそこずっと前から廃屋だよ。鍵壊れててさ、入れんの最近気付いた」 まあ、みんな暇を持て余していたのである。そういうわけで、余り気が進まないながらも、オレは他四名に従って空っぽの女子寮に侵入することになった。 意気揚々と男子高校生五人で入り込んだ女子寮は、当然ながら真っ暗な上に何もなく、ときめきというよりむしろホラー的に胸が高鳴るような代物だった。 「懐中電灯、持ってきて正解だったな」 誰かが言い聞かせるようにそう言ったが、実際かなり不気味な場所だった。三階建てのこじんまりとした建物で、オレ達はろくに探検もせず屋上に出た。 何か、思ってたのと違うくねー、とぶつぶつ言いながらもそこは若者の図々しさで、オレ達は結構大声で騒いでいたのだろう。というのは、気付くとどこからかサイレンが聞こえてきたからだ。 「うっせーな、どっかで事故ったんかな」 一人がフェンスから身を乗り出して、ひゃっ、とかそういう声を上げた。そいつが、やっべえ、と言うのと同時に、サイレンがすぐ近くで止まった。 「その屋上の者、何してる!すぐに降りてこい!」 全員慌てて下を見下ろして、パトカー二台とがなっている警官を確認した。 いや、別に何もしてない。してないつもりだが、まずいのか。何かまずいのか、これ。不法侵入とか、そういうのか?不良でも何でもなく、警察なんかに慣れていないオレ達は一斉に血の気が引いて、慌てて出口に向けて走り出した。 「裏口があるんだよ!そっち行くぞ!」 誰かがそう言って、オレ達は転がるように走った。パシリポジションのオレは懐中電灯を持っていたが、点ける余裕などなく、窓からの薄明かりを頼りにあちこちにぶつかりながらひたすら走った。一階に降りたとき、背後から「こら待て!」と怒鳴る警官の声が聞こえたが、オレは必死で前を追いかけた。 ここでオレが小学生の頃から微妙にいじめられっ子だった理由がまた一つ明らかになる。オレは、どうしようもなく運動音痴だった。運動音痴、運痴、と妙に屈辱的な蔑称でからかわれる、アレだ。逆上がりはできない、ボールもコントロールできない、そもそもボールの投げ方が分からない、性格的に勝負事が嫌いな上どんくさい、そして普通に足が遅かった。 この時オレは、暗闇を走りながら、子供の時もうちょっと男と遊んでいたら人生変わったかなあと考えていた。既にオレは明らかに最後尾、最後尾というのもはばかられるくらい仲間と引き離されていた。仲間は裏口らしい扉から次々に飛び出していく。それを眺めながら何かに蹴躓いて派手に転んだ時オレは、やっぱり人生変わっただろうなあと思った。少なくとも、今このタイミングで転びはしなかったに違いない。肩をがしっと警官につかまれて、引きずられるようにして、オレは建物の外に出た。外には何人か野次馬がいて、その好奇の目にさらされながら、オレはただ一人捕まってしまった己のどんくささをひたすら呪った。 「何してたんだ、こんな所で!」 「…ほ、…ほし…」 「ああ?とりあえず話は派出所で聞く。ちょっと一緒に来い、あとのヤツらは逃げたらしい」 腕をがっしり掴まれて、何もしていないはずなのに絶望的な気持ちになっていたオレは、牢獄にいる自分とか差し入れに来た母親の泣き顔とかを想像しながら、無抵抗にパトカーに乗せられようとしていた。 「あれ、二階堂?」 その時背後から聞こえた声に、オレはのろのろと顔を上げた。 そこにいたのは、後ろの席の無表情男、西根なんとかだった。 「何だ、君、…ああ、西根さんとこの。わざわざ来てくれたの」 警官が、やけにフランクに西根と話し始める。 「ええ、不審人物が侵入してるって連絡が入って、近所ですから…」 そこで西根はオレをちらっと見ると、また警官に向き直った。 「すみません、僕が早く来たらよかったですね。点検を友達に頼んでたんです。僕はちょっと、こういう暗い所苦手なので。まさか通報されるとは思いませんでした」 「なんだ。そうなの?君、何で早くそういうこと言わないの」 警官はうんざりした顔をしてこちらを見下ろした。オレが目を瞬かせてぼんやりしていると、西根が警官に掴まれていたオレの腕を取った。 「いきなりパトカーが来たので、驚いたんでしょう。お忙しい中、お騒がせして申し訳ありませんでした」 「本当なんだろうね」 「はい。問題ありません」 「ここらへん人通りないんだから、無人でも戸締まりしっかりしてね」 「はい。すみません」 「いやあ、いいよ。じゃ、おばあさんによろしく」 「さようなら」 頭を軽く下げて発車するパトカーを見送っている西根を、オレは口を開けて見つめていた。野次馬も方々に散っていく。 「…何なんだ、お前は」 西根は無表情に、腰が砕けて座り込んだオレを見下ろした。 「助けてもらっておいて、第一声がそれか」 緊張が解けるとふらふらになってしまったオレを見かねたのか、西根はオレの腕をやんわりとって立ち上がらせると、大丈夫か、と訊ねた。 「…き、」 「き?」 「気持ち悪い」 「病気なのか?」 「…いや、…昔から、緊張しすぎたり嫌な目に遭ったりすると…気分が…」 西根は、はあ、と小さくため息をついた。 「うち、すぐ近くだから、少し休んでいくか?」 オレは即座に頷いた。目の前がぐるぐる回っていて、西根が支えてくれていなかったら、すぐにごろんと倒れてしまいそうだったのだ。 |